コラム

Talking BAR Review vol.2 「根」に降りていくという論じ方 ―小寺昭彦氏と語る、原発再稼働と日本人―

2015.08.31

原発トーク写真

人生やりなおし研究所 Talking BAR編 今こそ原発について話そう~思想を持つことと、それを表明すること~」にご参加いただいた白澤健志さんにコラムをご寄稿いただきました。

 


Talking BAR Review vol.2

「根」に降りていくという論じ方 ―小寺昭彦氏と語る、原発再稼働と日本人―

白澤健志(しらさわたけし)

東京・吉祥寺出身。Be-Nature Schoolファシリテーション講座修了生(2009年度)。会社員。
エッセイ「義父の一言」で日本語大賞・文部科学大臣賞受賞(2012年)。慶應丸の内シティキャンパス定例講演会「夕学五十講」公式レビュワー。

 

「次は原発の話やるから」
Be Nature代表の森さんから第2回のテーマについてそう聞かされた時、率直に言って「困ったなあ」と思った。
原発に対する森さんのスタンスは、これまでの言動から大体わかっている。
いや、原発に対する私と森さんの考え方が違う、から困ったのではない。
推進にしろ、反対にしろ、特定の主張を掲げてそれを声高に叫ぶような集会はやだなあ、そしてそれを文章にして片棒担ぐようなのはもっとやだなあ、と思ったのだ。
今回は「ちょっと都合がつかなくて」とかなんとか言って断ろうかなあ…。
でも、そもそも森さんって、そんな政治的な集会をやりたい人だっけ?

しばらく悶々とした日々を過ごした後、森さんから詳細な企画書が届いた。そこには、私の心配を見透かしたかのような、こんな一文があった。
『※本イベントは原発反対・推進のどちらかに与するものではありません。また、どちらかの正当性を主張し合うものでもありません。』
続いて森さん自身が、
『実は、3/11直後、私の気持ちは大いに揺れました』
という表現で、原発に対して必ずしも反対一辺倒ではない複雑な心情を、率直に吐露していた。そして思索を深めるための対談相手として、科学技術コミュニケーターの小寺昭彦氏を招くことが記されていた。

私は小寺氏については知らなかったが、企画書に書かれていた
『原発をどうするにしても、それなりに納得することが大事で、そのためには認識の共有と対話の場が必要だ』
という趣旨のコメントには、何かしら誠実なものを感じた。

また森さんは
『真剣だけど深刻にならない、熱いけれどケンカにならない。そんな程度にやりたいと思います』
とも書いていた。
果たしてそのような場になるのか。見届けたい、と思った。

当日、会場の渋谷Be-Nature事務所に集まった参加者は11名。いつものようにおいしいディナーをいただきながら、近くに座った参加者同士で簡単な自己紹介をすませる。場が適度に温まったところで、森さんがゲストの小寺氏を紹介して、この夜のトークが始まった。

「一般の人が科学技術に関心を持ち、知りたい時に知りたいことが知れるように手助けをする存在、それが『科学技術コミュニケーター』です」
小寺氏は、自らの仕事をそう定義するところから始めた。大学で工学を専攻し化学メーカーに就職した、典型的な理系のエンジニアだった。だが、一般の人と科学技術を適切につなげる人がいないことに「気づいてしまい」、科学技術コミュニケーターという、言わば「文系の領域」に足を踏み出すことになったという。

その小寺氏と森さんが知り合うきっかけを作ったのは、電源開発株式会社(通称J-POWER)という会社だった。東京電力などの大手電力各社に電力を供給する、卸専業の電力会社である同社は、エコロジーとエネルギーを考える「エコ×エネ・カフェ」というイベントを2009年から主催しており、森さんはそのファシリテーターを第一回から務めている。そしてその場に、当初は参加者として、のちにこのカフェを含むプロジェクトの中の火力発電所見学ツアーのスタッフとして関わるようになったのが小寺氏であった。
森さんのような環境教育分野の人には「エコ」は語れても、「エネ」特に火力発電など非自然系の電源を語らせるのは難しい。それに気付いたJ-POWERが小寺氏に声を掛け、新たな「エコ×エネ・体験プロジェクト」の話が進んでいた。

そんな中で突如起こった311の東日本大震災。そして福島第一原発の事故。
森さんは初めて、差し向かいで小寺氏と話した。その内容は、今回の開催案内の中で森さん自身が明らかにしている。
『そんな4年前、小寺氏に原発への個人的意見を聞いたら「みんなで話し合ってきめられるといい」と言われ、正直はぐらかされた気がして納得がいかなかったのを覚えています。あれから4年、原発再稼働の具体化や来年の電力小売り自由化など、事態はいろいろと動いています。このタイミングで改めて原発について小寺さんと話したいと思いました。』

後年、この文章を読まれる方のために記しておくと、このイベントが行われた2015年6月末の時点では、日本では一基の原発も稼働していなかった。定期点検等で順次停止された原発は、福島の事故を契機に強められた安全基準をクリアしなければ再稼働できなかったが、この年の8月中旬、国の電力需要がピークになるタイミングに合わせて再稼働の第一号が予定され、実際に8月11日、九州電力の川内原子力発電所が再稼働した。

この状況も含めた、日本と世界の原発をめぐる現状について、小寺氏が参加者に説明していく。そのわかりやすさは、さすが科学技術コミュニケーター、といった感じである。各自の主張の前提となる事実認識を、まずはこれで共有していく。

続いて、森さんと小寺氏が、原発を絡めた各々の個人史を語りだした。

まず森さん。
26歳のサラリーマンだった1986年、チェルノブイリ原発事故のニュースに接し、そこから広瀬隆の本を読んで衝撃を受けたこと。でも日々の生活に追われてそんなことはいつしか忘れてしまったこと。
その後Be-Natureに転じ、大手メーカーのCSR活動の一環で環境教育事業のお手伝いをするようになったこと。そのメーカーが原発事業を拡大しはじめ、「正直、やだなあ」と思ったこと。そして「魂を売ったような気がした」こと。
そして311を経て今に至る、揺れ動く思い。その視線は日本人全体に流れる「空気」にも向けられる。当時を振り返り、森さんはこういう。
「311のような深刻な原発事故を経験しても、ものすごい力で元に戻ろうとするだろう、という直観があった」。

次に、小寺氏。
「科学技術には、『人を幸せにする』というベネフィットもあれば、原発事故のようなリスクもある。私は、原発のリスクも特別なものではなく、数あるリスクの中のひとつ、ワン・オブ・ゼムとして捉えている」
そう語る小寺氏が、化学メーカー時代に模索していたのは、「リスクを抱えながらどうやって人を幸せにするか」、その具体像をエンジニアとして描くことだった。
そうした中、勤務先の図書室でスウェーデンの持続可能な社会への取り組みを記した本に出会い深い印象を抱き、実際にスウェーデンに足を運ぶ。さらに脱原発政策決定の経緯を記した本に出逢い、強い衝撃を受ける。ついには、自らツアーを組み関心のある人とともに実際に現地の人から話を聞くまでにいたった。こうした流れの中で、2000年には勤めていたメーカーを辞し現在の仕事に入っていったのである。

エネルギーをテーマにした科学技術コミュニケーターの仕事をする中で、反対派と思しき人からは「小寺さんは原発をどうお考えですか?」「高レベル放射性廃棄物はどうするんですか?」などと訊かれた。福島の事故の前のことである。そのたびに、単純な「賛成」や「反対」でなく、「原発も含め技術は、時として失敗を乗り越え利用しながら開発していくものであり…」などという表現で答えてきた。多くの日本国民が、事故を目の当たりにして初めて原発の今後を考え始めたことと対比して、「311よりも前の方が、よほど原発について考えていた」というのが小寺氏の、原発問題に対する実感である。

ある著名な反原発活動家と知り合った時には、かねてからの疑問をぶつけてみた。
「反原発運動を進めていくと、将来、原発のことをわかる技術者がいなくなってしまうのでは?」
エンジニア、ないしは科学技術コミュニケーターらしいその質問に、その活動家は意外にも「自分もそう思う」と、あっさり同意したという。
単なる賛成や反対では割り切れない、複雑な原発問題を捉える小寺氏のスタンスが、この問いに集約されているような気がした。

ここでいよいよ、二人が、原発再稼働に対するそれぞれの態度を明言する。

まず、小寺氏が、多少逡巡しながら「消極的容認」と言う。その上でこう言葉を補う。
原発という巨大システムを社会のために維持しようとする多くの人たちの動きを、まずは率直に認めたい。その上で他にも様々なリスクがある中で原発だけを単に反対という感覚が自分にはない。
ただし、原発再稼働をめぐるプロセス、決め方には強い不満がある。進めるにしろ、止めるにしろ、その選択には相応の覚悟が求められる。なのに今の社会を見るとみな他人事のように振る舞っていて、とても覚悟など感じられない。そうこうするうちに、ごく一部の人の手によって、再稼働が進められている。
そのような再稼働の動きへの不満とともに、原発に携わるエンジニアを悪し様に批判する反対派の言説にも、憤りを覚えるという。「再稼働を進めるエンジニアも、人々の幸せに資するために、良かれと思ってやっている。その点を考慮しないで『反対』とだけ唱えるのは、本当に止めた後のことも含めた原発の事を考えていると言えないのではないか」。

さらに小寺氏は、これからの日本のエネルギー政策のありかたについて「地域ごとのベストミックスを目指すべき」と論じた。例えば、他地域より電力需要の少ない北海道は、恵まれた自然エネルギーを中心に考える。一方、東北は、心情的にももう原発を受け入れられないだろう。そして九州なら、地熱発電の活用余地が大きい。
「こうした試行錯誤を行うことで、メリットデメリットも実証できるだろうし、失敗をどう乗りこえるべきか、合意形成も図れるのではないか。」

次に森さんの態度表明。結論は当然「反対」、と明確に言い切る。「なぜこれほどの事故が起こったのに、原発をやめるということにならないのか?なぜそういう方向への話し合いにならないのか?そこが疑問」。そしてそのような社会の態度は「そもそも都民が、(東京電力の施設である)福島第一原発の問題が自分ごとになっていないということだ」と喝破した。
原発に反対しない社会への疑念を呈した森さん。しかしその思考はそこで停止しない。話は「自然とはなにか」という問いに及んでいった。即ち、遺伝子組み換え作物は許されるのか。医療技術で人体に手を入れることはどこまで許されるのか。自然と人為、どこに境界線を引くべきか。そして、
なぜ原発はNGなのか?
その、根源に向かうための問いは、「人類はどこまでテクノロジーを手中にすべきか?」というより大きなものに変容していく。そして森さんは、原発とともにクローン人間を引き合いに出し、「原子核には直接触れるべきではない。それを自制するのが人類の叡智」と、見えない一本の線を引いた。
小寺氏が「どこまでが神の領域か、という話だね」と引き取り、対話は短い休憩に入った。

19時15分に始まったトークは、気がつけば一時間余りも続いていた。休憩のあと、再び二人が向き合う。
ここで小寺氏が、話を、森さんが『311後も日本は変わらない』と見ていたところまで戻して「僕はあのとき、『ひょっとしたら、日本はこれを機に変わるのでは?』『これで原発が止まったらすごいな』と思っていた」と告白する。それに森さんが「なんだ、小寺氏も、本当は原発止めたいんじゃないの!?」とツッコむ。

少し場が和んだところで、二人はあらためてそれぞれの思想の深いところへ向かう。
まずは森さんの語り。
「地球上のシステムを根底から支えるのはエコロジー、つまり生態系の原理。エコノミー、つまり経済はその上に乗っかっていて、さらにその上で私達は暮らしている。エコロジーの枠組みの中でエコノミーが収まっていれば、良いのだが、環境問題などはエコノミーがエコロジーからはみ出るほど拡大したことが原因だと思う。でも、だからこそエコノミーには力がある。その意味で、市場原理に委ねる、というのは合理的な方法かもしれない。原発が止まるとしたらそこしかないと思う。でも今の原発再稼働には、民主主義的な多数決の原理も働いていなければ、経済的な合理性も弱い。(注・各種世論調査では再稼働に否定的な人が多数)」

それを受けて小寺氏は、「それは国民でなく、市場でもなく、官僚が決めているから。その決め方のプロセスに一番の問題がある」と述べ、スウェーデンの事例を中心に「脱原発のリアル」を説明してくれた。
同国では文字通りの国民的な議論の末、国民投票で原発を止めると決めた。決めたあとも実際に停止するまでは十年単位の時間がかかる。そして一度決めたことでも、直近の世論を反映させて、既存原発の閉鎖を延期したりしている。
いずれにしろ長い時間のかかるプロセスである。だがそれを厭わず、国民が、政策の一貫性を意識しながら、常に考え、決定し、実行していくスウェーデンの姿に、小寺氏は「もっとも共感を覚える」という。確かに、「熱しやすく冷めやすい」「喉元過ぎれば熱さを忘れる」などの言葉で評される日本とは、彼我の大きな違いを感じる。

ここで小寺氏は、自身が強く影響を受けた本として、次の二冊を紹介した。
一冊は、前述した転身の契機となった『ナチュラル・ステップ ~スウェーデンにおける人と企業の環境教育~』。スウェーデンの小児科医が1996年に書いた本である。
そしてもう一冊は、社会教育学者の松田道雄氏による『天分カフェ あるスローな街のラヂオ局から流れている社会教育講座』。誰もが自分の天分を活かせる、そういう社会をつくることを目指すためのバイブルであるという。
「『天分』、という言葉の中にある『分け与えられている』という語感が好き。自分の『天分』を発見していくプロセスが、人生だと思う」と、小寺氏が言う。

その言葉に森さんが、二人の共通の知人であり先輩であるという中野民夫氏の言葉、「至福の追求」を引用して、「そこにも通じるものがあると思う」と応えた。
「自分が本当に好きなことをやれば世の中はよくなる」。
原発を巡って交わされた二人の対話が、最後に、思い掛けない着地点を見い出した22時近く、この夜の場は閉じられた。

帰路、一緒に参加していたNさんと、対談を振り返りながら駅に向かった。
Nさんは、二人が主張をはっきり戦わせないことに、若干の物足りなさを感じたという。確かに、「明確な争点」と「異なる主張」が揃っていた割には、互いに斬り結ぶような議論にはならなかった。

だが、自らの主張を声高に論じて、「相手」や「誰か」に態度変容を要請する、それだけが議論の唯一のあり方ではない。
今宵の二人は、それぞれの主張を述べ合い、違いを確認した上で、それぞれの思想の「根」にいっしょに降りて行き、ともに探求していった。なぜ相手はそう考えるのか。なぜ自分はそう考えるのか。その探求の過程をともにする中で、地表に現れた主張の違いと、地中でつながっていた同じ想いを確認することができた。それは、将来的に、双方の内面に、自己の変革につながるなにかを生みだすかも知れない。

森さんが、そして小寺氏が、そのことをどこまで意識していたかはわからない。
しかし私にとっては、子どもっぽい言い合いではない「大人の対話のあり方」を、垣間見させてもらった、初夏の一夜だった。

白澤健志