コラム

「言葉で描く自画像」 ―熊澤弘之氏に聴く、「『遺書を書く』習慣」―

2015.05.25

熊澤氏の話に身を乗り出すBe-Nature森
人生やりなおし研究所 Talking BAR編「今を生きるための『遺書を書く』習慣」にご参加いただいた白澤健志さんにコラムをご寄稿いただきました。


Talking BAR Review vol.1

「言葉で描く自画像」 ―熊澤弘之氏に聴く、「『遺書を書く』習慣」―

白澤健志(しらさわたけし)

東京・吉祥寺出身。Be-Nature Schoolファシリテーション講座修了生(2009年度)。会社員。
エッセイ「義父の一言」で日本語大賞・文部科学大臣賞受賞(2012年)。慶應丸の内シティキャンパス定例講演会「夕学五十講」公式レビュワー。

 

すべての文章は、誰かに読まれるために書かれている。
例えば日記のように、他人に見せるつもりの無い文章であっても、それが書かれているまさにその瞬間、その文章は、書いているその当人によって読まれている。

遺書はどうだろう。
もちろん、誰かに読まれることを前提としている。
いや、誰かなどという曖昧なものではない。多くの場合、遺書は、家族や友人といった特定の読み手を前提としている。
しかしそのこと以上に遺書を遺書として特徴づけるのは、それが読まれるタイミングであろう。
書いた人が存命であるうちに遺書が読まれることは、通常、ない。
そして遺書が然るべき時に然るべき人に読まれたならば、それはその遺書を書いた人が既にこの世にはいないということを意味する。となればそれは、返信の効かない、一方通行の言葉にしかなりえない。遺書はそんなふうにできている。
そう思っていた。

ゴールデンウィークを間近に控え、すでに少し楽しげな4月下旬の渋谷の街。
「久しぶりに都会に来ました」そういって熊澤弘之さんは、ブルーのダンガリーシャツに色褪せたジーパンという出で立ちで、会場であるBe-Nature Schoolにあらわれた。35歳の、その飄々とした笑顔からは、今からこの人が遺書について語るのだということが想像しにくい。
十数名の参加者が、彩り豊かに盛られたディナープレートを手に、おのおのテーブルにつく。それを見計らって、主催者である森雅浩・Be-Nature代表が熊澤さんを紹介し、その夜は始まった。

熊澤さんは、湘南の海にほど近い神奈川県茅ケ崎市で生まれ育った。数年間のサラリーマン生活のあと、故郷のまちで、会員制体験農業施設(兼イベントスペース)「リベンデル」を営みはじめた。今年で4年目になる。

森さんがプロジェクターを操作すると、スクリーンに「リベンデル」の様子を写したスライドが映し出された。まず目に飛び込んできたのは、庭の緑の色。濃い緑、淡い緑、さまざまな植物が織りなす緑のグラデーションが、青空の下で心地よさそうに佇んでいる。
「ちなみに『リベンデル』は、庭に敷き詰めたクローバーの品種の名です」と熊澤さん。遠景の写真ではわかりにくいが、背の低い点描のような緑色が、そのクローバーなのだろう。ふと、その上に寝転んでみたい気持ちになった。

続いて建物と、そこに付随する道具たちが紹介される。古民家と呼ぶにふさわしい風格を湛えた母屋は、熊澤さんの祖父の代に建てられたものだという。そして次々と映し出される“懐かしい”モノたち。大八車、釜戸、醤油樽、石釜…。そうかと思えば台所はIHだったりする。「火は薪かIH。極端ですね」と熊澤さん自らツッコむ。

スライドは再び屋外へ。農園の入り口近くにある池はビオトープを形成し、見た目にも潤いをもたらしている。これ作るの大変だったでしょう、と森さんが水を向けると「この池は、みんなで、ワークショップ形式で作ったんです」という。単に整えられた環境を会員に提供するのではなく、その環境を創る営み自体を「体験」というかけがえのないものにして会員とわかちあう。ああ、そうか、熊澤さんのやりたいのはそういうことなんだ、とにわかに得心する。

「リベンデル」のスライドも尽き、森さんが、いよいよ本題の「遺書」に話を向ける。すると熊澤さんが、おずおずと、という感じで「遺書」を書く契機となった「病気」について話し出す。

熊澤さんの口から語られた「病気」に関する経緯を箇条書きに並べると、こんな感じだ。
・二年前、咳が止まらず強い痛みも感じ、医者に診てもらったらレントゲンの肺が真っ白
・別の医者に行ったら「すぐ大病院へ」→行ったら「即入院」→入ったら「余命一ヶ月」
・悪性腫瘍が転移し皮膚筋炎を発症、というのが医師の診立て
・しかし入院して規則正しい節制生活を送るうちに見る見る元気に
・医者は「誤診」を認めず、やがて自己判断で退院
・鳥小屋作業でウイルスに感染したのが咳の真因かと思うが、正確には今もわからない
・とにかく二年経ってもこうして元気で生きている

あとからまとめてしまえばそれだけの話だが、渦中にあった熊澤さんにしてみれば、文字通り生きるか死ぬかの大問題である。当時を振り返る熊澤さんの言葉のうち、印象に残ったものを列挙してみる。
・入院前はヨメには言えず。親は「ちょっと…」と言ったらすぐわかった。親だから。
・ヨメは緊急入院の翌日に病室に来たが、全然泣かない、信じない。「そんな病気になるはずがない。だって、こんなにストレスのない生活をしている人はいない」と。強い人。
・自分自身はその前夜、つまり入院した晩、一人でひとしきり泣きじゃくった。
・その時、泣きながら遺書を書いた。一行くらいの。みんな仲良く、とか、そういうもの。

一行の遺書、と聞くと短い気がするが、いざとなったらそんなものかも知れない。とにかく、それを書いたのが緊急入院した当夜のことだった、ということにはハッとした。この時点で熊澤さんは「余命一ヶ月」を一人で抱え込んでいたのだ。こんな孤独な夜はない。
そして翌日、奥さんが訪れたあたりから、熊澤さんの気持ちにも徐々に変化が現われる。医者の言葉に振り回されるのではなく、自分の身体に状態を直接「聴く」ようになる。主観的にも客観的にもだんだん元気になる自分がいて、そうなると「遺書」の位置づけも変わってくる。

そのあたりの心境の変化を、森さんの問いほぐしに応じて、熊澤さんが語る。
「いま思うとどうでもいいことを書いていた。作業手順書みたいな。ロマンチックなことは一言もない。俺、こんなもんか?と思って」
「最初は『遺書』とタイトルをつけてPCのデスクトップにおいていた。でも、なんかいやだな、と思って『冒険の書』に変えた。そう、ドラクエの。自分をセーブしようとしていた」
その時の気持ちが今甦ってきちゃった、封印していたのに。そういって熊澤さんは一瞬だけ天を仰いだ。全体にさばさばと話が運んだ中で、このときだけ、熊澤さんはあの夜のあのひとりぼっちの病床の中に引き戻されたようにみえた。

笑うことは健康に良い、と医者は言う。
それと同様に、泣くべき時にきちんと泣くことも、身体の健康には必要なことなのではないか。
死を宣告された夜に思いっきり泣いたことは、その後の熊澤さんの心身の回復に、少なからずよい影響を与えたのかも知れない。
泣くべき時には、思い切り泣く。その涙が、心のビオトープを潤してくれる。

遺書を書くこと、死を想うこと。それについて、もう少し熊澤さん自身の言葉を並べてみよう。
・死ぬことの妄想はし尽くしちゃったんです。それでもう死に固執していないというか。
・遺書はその後、時々書き足したり削ったりして、今もデスクトップにある。ちょっと先の自分のためのタイムカプセル。
・遺書を書くのが自分のためになってきた。普段は見ることもない。体調が悪くなったり、不安になったりした時に見る。他人には見せられないけれど、「遺族」には見せたい。
・最近、書かなくても、ヨメとそういうことを話すようになった。感謝を言葉で伝えるようになった。
・余命一年ではなかったとしても同じようにその一日を使えるか。
・物差しが変わった。シンプルになった。損得で考えなくなった。直感で動くようになった。
・子どもを毎日風呂に入れる。最後のように入れる。ビールも毎回、最後と思って飲む。美味しい。
・物事を、長くても一年くらいのスパンで考えるようになった。一方で「森づくりプロジェクト」みたいに、どうやっても完成まで数十年かかることも始めている。自分が死んだ後にも森があったらいいなと。自分の生きる時間軸が確実に伸びた。
・「死んだら終わり」だと固執する。次にまたなにかの形でこの世に生まれてくる、そう信じる方が僕にはいい。

「遺書」は死者から生者への単なる一方通行の言葉ではない。それは、書き手の想い次第で、生ある者同士の関係性を豊かに結び直す双方向の言葉として機能する。そのことを熊澤さんは、「余命一ヶ月」という得難い体験から観取したのだ。

ここで、私から森さんに頼んで、もういちど「リベンデル」のスライドを映してもらった。「遺書」の話を聴いたあとならば、なにか違ったものが見えてくるような気がしたのだ。
スライドを見ながら、再び「リベンデル」についての想いを熊澤さんが話す。すると、先ほども話に出た3つの言葉が、急に深い輪郭を持って浮かび上がってきた。

「リベンデルも、僕がいなくてもまわらないと。」
祖父の代、自分の生まれる前からあった土地と家屋。そこをもういちど様々な生命が生きる場として再生する。そして自分のいなくなった後の世代にまで残し、伝えていく。
使命感、というと悲壮に過ぎる。それがどこまでも自然な営為であるような、軽やかで穏やかな多幸感のようなものに包まれて、熊澤さんの日常は在る。

「リベンデルは開かれている。」
イベントスペース目当ての会員が、最初は興味のなかった畑に自然と入り始める。
見知らぬ会員同士が、たまたま同じ日に同じ場所を使う中で、協働作業が始まる。
お金ではなく、物でもなく、信用という見えないものを介して、温かい関係性が日々紡がれていく。そういったことを可能にする、「リベンデル」という場。

「リベンデルはもうみんなのものだし。」
そこにはもう、熊澤さん自身の姿はない。ただ、熊澤さんがそこにいたこと、それだけがみんなの共通の記憶となって、その場所に残り続ける。
手放した人は、すべてを手に入れる。

2時間余りのトークの終わり間際。
遺書を書くこととあわせて、熊澤さんは、みずからの葬式を思い描き企画を立てることを、会場の参加者たちにしきりに勧めていた。
ご本人はおっしゃらなかったが、きっと熊澤さんは、いつかあの「リベンデル」でみずからの最期を送るつもりなのだろう。
あの「リベンデル」自体が、熊澤さんが私達に向けて書き綴りつつある「場所という形の遺書」なのではないか。

自己との対話、生きるための遺書。
言葉で描く自画像と向き合い、生あるうちに日常の中でそれを周囲に伝えていくこと。そんな日々を連ねることができた時、私達は、思い残すことなくあの生態系に帰っていけるのかも知れない。四つ葉のクローバーの上にそっと身を横たえて。

白澤健志