コラム

BNS20周年記念 & 人生やりなおし研究所 Talking BAR編 Volume.6 自然栽培からみた世界の成り立ち 河名秀郎氏に聴く、その宇宙観と思想の根っこ

2016.08.24

人生やりなおし研究所 Talking BAR編 vol.6「 自然栽培からみた世界の成り立ち 河名秀郎氏に聴く」にご参加いただいた白澤健志さんにコラムをご寄稿いただきました。


BNS20周年記念 & 人生やりなおし研究所 Talking BAR編 Volume.6

自然栽培からみた世界の成り立ち河名秀郎氏に聴く、その宇宙観と思想の根っこ

白澤健志(しらさわたけし)

東京・吉祥寺出身。Be-Nature Schoolファシリテーション講座修了生(2009年度)。会社員。
エッセイ「義父の一言」で日本語大賞・文部科学大臣賞受賞(2012年)。慶應丸の内シティキャンパス定例講演会「夕学五十講」公式レビュワー。

 

この Talking BARでは毎回、ドリンクとおつまみ料理が参加者にふるまわれている。料理の担当は蓮池陽子さん。Be-Natureのイベントで、私も何度もごちそうになってきたが、この方のつくるものはほんとうにおいしい。最近では料理の本も出されたとか。
私がこのシリーズのコラムを寄稿するのも今回で六回目、ちょっとウラ話をすると、執筆にあたり金銭的な報酬は一切いただいていない。その代わり蓮池さんの料理を食べ放題、というのが代表の森さんが提示した条件であり、私は一も二もなくその条件に喰らいついたのであった。モグモグ。

蓮池さんの手による今夜のメニューは次の四つ。
・神山鶏のタマネギみそ風味
・シンプルポテトサラダ
・野菜スティックwithみそ
・ナスの薬味あえ
食材はすべて、今回のゲストである河名秀郎さんが経営する自然食品販売会社、「ナチュラル・ハーモニー」から調達されたものだ。

私は、当日まで、河名さんのことはほとんど存じ上げなかった。

当日、会場に集まった12人の参加者も、河名さんとは初対面の方が多かった。その人たちを前に司会の森さんが「今夜の狙いは、新しい世界観に触れ、今後の人生の選択肢が拡がった気がするようになること」、と言う。「かなり独特な世界観だからね」とも。森さんの、少し脅かすような言葉に、あれ、ただの野菜作りの話じゃないのか、と今更ながら認識を新たにする。傍らでは河名さんが、ニコニコしながら座っている。

まずは昔話。スクリーンに映し出された一枚の写真には、今と違って長髪の河名さんが、設立されたばかりの代々木上原のBe-Nature事務所でなにかの講座の講師を務めている様子が収められている。
「最初の頃、僕らはかなり意気投合して、ナチュラル・ハーモニーとBe-Natureの合併話もあった。でもやっぱり吸収されそうでいやだな、と思って最後は拒否しました(笑)」と森さんが言えば、
「スクールというのは、情報発信する上ではとてもいい形態。だからBe-Natureは魅力だったね。売り物である野菜はあくまでツールで、本当は主張を伝えたかったから」と河名さんも応える。

ここで河名さんが会場の参加者に問う。「皆さん、『枯れる野菜』と『腐る野菜』の違い、わかりますか?『自然栽培』と『有機栽培』の違い、わかりますか?」
手を挙げさせたりはしなかったので、12名の方々がどこまでご存知だったかはわからない。でも少なくとも私は、まったくわからなかった。え、なにか違うの?というレベルだ。
その問いかけを呼び水に、河名さんが経営する「ナチュラル・ハーモニー」の事業が紹介される。メインは自然食品店であり、レストランも経営しているが、有機栽培(オーガニック)を売りにしている一般的な自然食品販売店とは一線を画している。
「世の中一般のそういったお店がアピールしているのは『安心・安全』。でも僕が言いたいのは『本来の』ものを食べよう、ということ。無農薬だからいいのか?無添加だからいいのか?とずっと問い続けてきた。ちゃんと育ったものには、本来、農薬はいらない」

そのように考え、また今のような活動をする契機となったのが、「姉の死」である。そのことがきっかけになって「人は、何であれだけまで苦しんで死ななければならないのか」という率直な思いから、人の生死について深く考えるようになったという。40年前、河名氏18歳の頃だ。
「自然界の命の仕組みはどうなっているのか。人の命の仕組みはどうなっているのか。それがわかれば上手に生きられるだろう、と思ってこれまでやってきた」

ここで先ほどの「枯れる・腐る」の話が出てくる。「植物は、最後には枯れるのが自然の姿。いい野菜は放っておけば枯れる。ところが自然栽培でない野菜は、腐り、姿形をとどめなくなる。枯れるも腐るも微生物レベルでは菌の作用である。菌には発酵系の菌と腐敗系の菌があるが、前者を善、後者を悪とするのは人間の勝手な決めつけ。腐敗菌には、命を地上に戻すという役目がある。自然との調和がずれたものを、腐敗菌が分解してもとに戻しているのである。だが、人間が介在して肥料や農薬を与えると栄養過多となり、腐る。野山に自生する野菜はそんなことなく、最後は枯れて自然に帰る」

有機栽培と自然栽培の違いも、この延長線上で説明される。前者が肥料を用いて半ば強制的に作物に栄養を与えるのに対し、後者は肥料を使わず、作物が自ら地中の栄養分を吸収するのを促す。作物そのものの「育つ力」を最大限に引き出すやり方、といっていいかもしれない。
「皆さんは、色の薄い野菜と濃い野菜なら、どちらを選びますか?実は、濃い野菜というのは肥料が肥え過ぎていて窒素が入りすぎているもの。身体にはよくない」
なるほどこのあたりが、一般的な自然食品店とは逆の発想であり、「業界の異端児」と呼ばれる所以なのだろう。河名節は続く。
「種なしブドウのデラウェアを一般の自然食品店が『オーガニック』として売っているけれど、あれが僕には理解できない。ブドウには種があるのが本来の姿。種ありを売らない限り、栽培方法だけオーガニックでも、オーガニックとは言えないのではないか。彼らは『無農薬だからいい』と考えているようだけれど」
そうか、有機栽培がその名の通り「オーガニック」であることを大事にするのに対して、河名さんのいう自然栽培は「オーセンティック」であることを追求しているのか。前者(オーガニックかどうか)は客観的に言えるけれど、後者(オーセンティックかどうか)は価値観の問題だからなあ。そんな対比が頭の中にボンヤリと浮かぶ。

しかし実はこの「自然栽培うんぬん」の話は、今日のメインテーマではない。「自然栽培からみた世界の成り立ち」というタイトルの通り、本題は「世界の成り立ち」のほうである。そしてそここそが、「僕は河名さんの発想が好きで、兄貴と慕ってついていこうと思ったけど、思いとどまった(笑)」と森さんをして語らせしめる、河名さん独自の思想の根源である。

ここで、森さんがPCを操作し、スクリーンに新たな文字を映し出す。
<霊的視点で世界を見る>
おっ、なんだ、突然「宗教」的になってきたぞ…と無意識に身構えてしまう。

森さんに促されて、河名さんが語り始める。
「人はみな、個人として生まれて来た使命があって、それが潜在意識では何かを理解して、それを全うするためにこの世に生きている。そのためには身体が頑丈で健全でないといけない。身体は大事に使わないといけない。健康は目的でなく手段。使命を果たすことこそが目的である」
先述の姉の死で、癌に対してとてつもない恐怖感を抱くようになったという原点を交えて、河名さんの話は続く。
「苦しんで死ぬ宿命が人にはあるのか、枯れて安らかに天上界に還る方法もあるのではないか。そんなことを考えていた時に自然栽培の世界観に出会った。重要なのは土と人間の連動。大自然に生きる野生動物は病気にならない。本来、生存している場所で秩序が崩れなければ病気にも虫歯にもならない。人間もそうだ。自然のルールに照らせば子どもも病気にならないはずだ、と思い、試しに自分の子には予防接種もしなかった。当然、感染症を罹ってしまった(笑)。それはなぜか。結論は、産まれる前から、栄養と一緒に毒素も母親からもらっているから、それを浄化するために、ということだ」

…先ほどまでの野菜の話から、なかなかスゴイところに来てしまった。
森さんが確認する。「病気を罹って、それで病気で死んでしまったら、それがその人の寿命だったということ?」
「大局的に見れば、そういうことになるのかなー」
「ほんと?そうかなあ…」と、ちょっと納得いかない表情の森さん。
「だから、病死ではなくて老衰で大往生がいいよね」

河名さんは話を続ける。「世の中、報酬は『自分で勝ち取るもの』という考え方が一般的だと思う。でも自然的な考え方では『ご褒美としてもらうもの』。野菜も同じで、肥料なしでも野菜が育つのは、自然のルールに則っているから」
このあと、話はさらに大きく展開していった。自然栽培の創始者の話、宗教的なものの見方の話、宇宙と地球の陰と陽の変化の話、経営者としてお金に苦労し、また執着もあるという話、志を同じくする人との出会い、でもその人と根底で通じあえなかったことによる別れ、億単位の負債を抱えそうになったことと、そして突然それが回避されたという不思議な出来事…。

正直なところ、話がオカルト的な領域に入ると、私はついていけなくなった。かといって河名さんの話は、一から十まで荒唐無稽なわけでもない。根っこの部分は実体験に裏打ちされた確かなものにつながっている。混然一体となったそれらの思想全体を、どう受け止めればよいのか、ちょっと混乱してきた。

その理解の手助けをしてくれたのは、やはり、ホストの森さんだった。河名さんの話を全肯定するでもなく、もちろん全否定でもなく、時々ツッコミを入れながら、いくつかの角度から切り込むように質問をする。例えばこうだ。
「ところで河名さんが言う『霊的な観点』は、自然そのものという感じがしないんだけど」
「霊的なものと言っても、最終的には科学と一致してくると思う。今はまだ、それを感知できるほど科学が発達していないだけ。この先、科学というレンズの精度が上がると、心なるものでさえ物質的に分析できるようになるかもしれない。」
「そうなるのも、なんか悲しいなあ(笑)。じゃあ、占いは?」
「これからは基本通用しなくなると思うよ、占いも、風水も。それは、地球が陰のバイオリズムだった時の話。今はもう陽のバイオリズムに移ってきていると感じるから、逆のことが起きるかも。」

自然界の秩序を至上のものとする河名さんの考え。それは、経済学でいえば市場原理主義のようなものかも知れない、と思うようになった。すべては、見えざる神の手に委ねれば上手くいく、というような。とすれば有機栽培は、積極的な市場介入を是とするケインズ的な立場なのかなあ…。そんな、ちょっと場違いなことを考えているうちにも、二人のトークは続いている。
「人は誰もが生きる意味や使命を持って生きている。自分の場合は、自分の体を自然と調和させることで誰もが苦しみから解放され、大往生できることを証明すること?
自然界は、人類が万物の霊長として存在するピラミッド構造をしている。しかし最上位にある人類は、決して下等の生物や植物、菌類を思うがままに支配してこの位置にあるべきではない。逆に彼らによって生かされているという畏敬の念をそれぞれが持つこと。そうしないと、地球は人類によって滅んでいってしまう」
「こういう話、いつもしているんですか?」と森さんが尋ねると、
「ナチュラル・ハーモニーでも『医者にも薬にも頼らない生き方』という全12回のセミナーをやっているのだけど、いつもはその最後、12回目でする話を、今日はいきなりしました」
「だからついていけなかったんだ(笑)」森さんの率直な答えに、私も納得する。

最後に河名氏は、自らの五感を信じて食と向き合うことを説かれた。
「野菜でも何でも、『少し不味くても、体にいいから食べよう』というのはよくない。それは身体でなくアタマで食べているだけ。そうではなく、口に入れた瞬間の『美味い・不味い』で判断すればいい。その力は本来、人間に備わっているもの」

ここで会場の参加者の方から、「『霊的』という言葉がお話にそぐわなかったのでは、という投げかけがあった。
「うん、日本語で『霊的』というと、霊魂の世界みたいになっちゃうんだよね。そういう意味ではなかったんだけど」と、主催者の立場から森さん。
「『スピリチュアル』という言葉のほうが良かったかも知れない。緩和ケアとかにも通じる言葉遣いになる」と会場の男性。
「でもそれだとエハラ某のような印象になっちゃう(笑)」と受けた後、森さんが、自分の感じ方を会場に伝える。
「河名さんの言う、『自然のルール』という言葉は、僕はあまり好きじゃない。ルールって人が考えるもののような気がするから。自分では『自然そのものを拠り所にする』とか言っている。まあ、でもそういうルールみたいなものはあると考えている。この世を成り立たせているものがあって、それを因果といってもいいけど。そして因果と因果がぶつかるところを縁と言うんだよね」

トークの時間も終わりに近づいてきた。最後に一言,と森さんに求められて、河名さんが喋る。
「僕の生き方は、決して特別なことではない。誰でもできる」と言うや否や、
「いやいや全然普通じゃないよ(笑)。突き詰め方が半端じゃない」と早速森さんのツッコミが入る。そして「自分は弱いし、すぐブレる。河名さんに、漢方薬は良くないというのを教えられて、それが頭にしみついていて。でも今これ(漢方薬)を飲んでいたりする」と、持病の薬を見せながら森さんが呟く。
「ところで結局、河名さんって、『これが原因』という仮説を立ててそれを検証する『仮説検証人生』を40年間続けているってことだね。全然スピリチュアルじゃなかった(笑)。それって科学の手法じゃないですか。しかもすべて物質に還元されるんだもんね」
「そう、そう。ただ、見えないだけ」と河名さんも応じる。
「今日は楽しかった。なんか、昔、自分が考えていたこととか、いろいろ思い出しちゃった」そういう森さんの、まとめともいえない呟きで、この日の会はお開きになった。

後日、著書『自然の野菜は腐らない』を読んでみた。トークで河名さんが熱く説いていたことが、もう少し丁寧に、よりわかりやすく説明されている。でも本で理解するだけでは、「アタマで野菜を食べる」のとあまり変わらないのかも知れない。もう一度、河名さんの野菜を五感で、虚心に味わってみようかな、と思う。そこから感じることが、自らの出発点になりそうな気がする。

今日食べたものが、明日の私になる。ならば、食べるものに関心を持つことは、明日の私に関心を向けることに他ならない。物質としての自己の拠って立つところを掘り返してみる。それだけで、土が少しだけあったまるはずだ。

白澤健志